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勝利への旅立ち (1986)

ドラマ ファミリー
59.6pt 59.6pt
HOOSIERS

3 (1人)

田舎の弱小高校バスケット部にやってきた新任コーチの型破りな指導法は、町の人々の反感を買うが、次第に心開く人も現れ、チームを州決勝大会へと導く。ジーン・ハックマン主演のスポーツ・ドラマ。
受賞歴
助演男優賞 : ノミネート  /  デニス・ホッパー
作曲賞 : ノミネート
レビュー投稿
レビュー
バスケ部顧問さん
2003/05/30 13:11
けっこう感動映画でいい作品だと聞いてたんですが、僕的にはいまいちでした。どうしてもスポーツものは勝つか負けるかの二元論になってしまうので、ドラマがわかり易くなり、見る者をストーリーに引き込みやすくなるという利点はあるのでしょうけども、逆にいうと見る者の意識が複雑化されないという点で、僕はいまいちのれません。
だいたい僕はスポーツの勝利主義や技能上達主義というものが大嫌いなんです。スポーツの本来の意味、それはただ楽しめればいい、ということだと思います。それがいつの頃か(たぶんプロスポーツ選手という職業ができたあたりから、)スポーツ=汗水たらして練習しまくって上達していくものと定義されるようになった。
別にそれはそれでいい。上達したい奴は一生懸命練習してがんばればいい。それは個人の自由だ。
しかし、プロスポーツが大衆化されたあげくおこった恐ろしい事態は学校教育の場にも、スポーツをする時、教える時、プロスポーツ的な感覚、意識を持ってスポーツがもたらされたことだ。学校教育、そして教師がスポーツに関して教えるべきことは、ただ単にスポーツをとうして体の感覚を日常生活と密着させて、「我、ここにあり」という自分の体と心を意識させることにより、体と心をバランスよく育てていくことだと思う。スポーツを通して自分の体を愛するということを学ぶことだと僕は思うわけです。ただそれがスポーツ最大の力だと思います。
ところがこれまでの学校のスポーツ教育、とくにクラブ活動は大間違いだったと思う。勝利や上達といったわかりやすい目標に向かって努力する学生たち。それはそれでよいとしよう。しかし、学校や教師たちはそのわかりやすい努力を学校側の明確な指針として掲げてはいけないと思う。なぜなら個人の努力は個人にしか還元できないのであって、学校や教師が勝利主義などの目標を定めることは、人間一人一人の最大プライベートなテリトリーである、体、すなわち肉体を、学校教育という、いわば絶対善とされている権力に乗っ取られてしまうのと同じである。もっときつくいってまうとレイプである。
そう、わたしたちはある意味、学校教育にレイプされていたのかもしれない。そんな思いさえしてくる。

まだまだ書きたいけど、また今度に書きます